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江川太郎左衛門英龍(坦庵)の魅力を探るPart3

 Part2で紹介しました土間には、北側中央に大きなかまどがあります。

土間から屋根裏を見上げると、一番高い位置に木箱があるのが見える。

この箱には日蓮上人直筆の曼陀羅が棟札として納められていて、その霊験により

江川邸は今日まで火災にあった事がないと伝えられる。

ガイドさんのお話によると、これだけの代官屋敷を昔のまま保存するのは、並大抵ではない

金額と、大変な労力が費やされているそうです。

ガイドさんの熱弁にも、偉大な人物が郷土に存在したという誇りが伝わり感動的でした。


江川邸主屋の屋根裏の造りと、土間の広さに感激しつつ、次は主屋内の見学です。


部屋の内部は、資料館として、数々の書画や詩文など貴重な品々が展示されています。


入室はできませんが、庭園に囲まれた書院です。


この奥の間が、「塾の間」といい、塾生たちから「韮山塾」と呼ばれ、砲術に関連する
様々な学科が教授され、実地訓練も行われた。

英龍は、「敬慎第一、実用専務」の考え方により、人材の育成に、もっとも力を入れていた。
「塾の間」より輩出した次代の人材が、明治維新後の日本を形作っていく、大きな力となった。

かつて江川邸を訪れた建築家白井せいいちは、江川邸を「茅山が動いてきたかのような
茫漠たる屋根と大地から生え出た大木の柱群、ことに洪水になだれ打つごとき、
荒々しい架構の格闘と、これに覆われた大洞窟にも似ている空間」と表現した。


次に、郷土資料館には、注目のこちらの煌びやかな袴が展示されていました。
長年のガイドさんでも、こちらの袴の展示は初めてと言ってました。
国文祭に向けての、特別展示だったようです。

この袴は、下田に入津して許可なく測量などを行っていた英国船マリナー号の退帆交渉を
命じられた英龍が、交渉に臨む際に身につけたといわれる袴。交渉は無事成功した。
普段は木綿のものしか着ず、冬でも薄着でとうし、生活は質素な暮らしをしていたが、
必要な時には出費をおしまなかった。


英龍が韮山代官となった翌年(1836年)は大規模な一揆が発生するなど、社会は

より不安定な状態へと傾いていった。英龍は、自ら率先して質素倹約に努め、部下たちにも

勤務精励と徹底した節約を求めました。

英龍が質素倹約に努めていた事がうかがえます。


英龍氏の数々の功績

 幕府に対する沿岸防備の建議、農兵制度(近代的な兵制)の建議と農兵訓練

 西洋の砲術の研究と訓練、測量技術の研究と実施、東京湾お台場(沿岸防備の為の砲台)

 や韮山の反射炉築造に関する提案と実行、パン(兵糧として)の最初の製造、戸田村での

 最初の西洋式造船の監督、そして江川塾における教育など、極めて多くの事を行って

 いるが、すべて憂国の思いからであった。

 同時に彼は、欧米の共和制、民主主義にも深い関心を寄せる。

 また英龍は、代官として民政に心を配り、村々を巡回して窮民の救済にあたった。

 巧みな行政手腕により村々を立ち直らせ領民から、「世直し江川大明神」と敬われた。

 広い地域に対して行政として初めて種痘を行い、領民を天然痘の流行から守ったのも

 彼であった。一方では多彩な余技を持つ文化人であり数多くの書画、詩作、

 工芸品などを残している。



安政2年ペリー来航以後の絶え間ない激務によって身体を損なった英龍は、

容態急変により、江戸本所の屋敷で息を引き取りました。

度重なる江戸への出張も重なり、今で言う、過労死だったそうです。

54歳という彼の突然の早すぎた死に、惜しむ声が絶えることはなかった。

しかし、英龍が手がけたこと、伝えようとしたものは、確実に受け継がれていきました。



バスツアーの僅か2時間の間に英龍氏の功績の数々、国や領民を思う心、多彩な趣味、

など、英龍氏の魅力溢れる人柄に引き込まれた,有意義な時間となりました。

最後に英龍座右の銘

蛮社の獄や高島秋帆の捕縛など、志を同じくする人々が弾圧されたり、自らも幕閣から

遠ざけられるなど、不遇の時期にあっても、英龍は強引に時局を動かそうとはせず、

じっと耐えています。

これも、母の教えから得たところによるのでしょう。


ガイドさんのお話を元に、数枚の資料からも抜粋させて頂き、

江川太郎左衛門英龍(坦庵)を大まかに紹介させて頂きました。

魅力溢れる人柄は、まだまだ紹介しきれませんが、

少しでも、伝わっていただけたら、幸いです。











 

author:asakasou, category:歴史, 21:05
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江川太郎左衛門英龍(坦庵)の魅力を探るpart2

反射炉を後に、次は代官屋敷江川邸へ向かいます^^


車中では、江川太郎左衛門英龍(坦庵)の略歴など

下記の様な感じで紹介がありました〜


江戸時代、伊豆の国市域の村々は、殆どが幕府の直轄領や旗本領と

なっていました。勘定奉行の下で、直轄領の支配を担当したのが、韮山代官です。

韮山代官の職は、代々江川氏が世襲していました。

その支配地域は、時期によって異なりますが、おおむね現在の静岡県東部・伊豆地方、

神奈川県・東京都・埼玉県・山梨県にまたがる、広い範囲に分布していました。

歴代の韮山代官の中で最も知られているのは、幕末に活躍した江川英龍(坦庵)です。

韮山代官江川英毅(ひでたけ)の次男として生まれた英龍は、父英毅の幅広い交友関係の

中から、一流の人物を息子の師とし、剣術、絵、漢詩、書家、工芸、楽器の演奏、天文学、

測量など、さまざまな分野で持てる知識や技術を伝えた。

英龍が韮山代官となった当時は、飢餓が続いて一揆や打ち壊しが頻発し、外国船が来航

するなど困難な時代だっそうです。


英龍氏についての背景など、聞きながら、バスは目的地到着です〜

駐車場からも分かる、塀に囲まれた大豪邸の代官屋敷!!

バスを降りて、歩いてすぐの所に、言葉では言い表せない存在感と迫力で、
当時のままの表門が目に飛び込んできました!!

まず、右側に見える芝生の広場は、枡形(ますがた)といい、代官が出かける際
人数を揃えるのに使われたり、幕末には、農兵の訓練場としても利用されました。
正面の表門は、1696年建築


余談ですが「篤姫」のロケを初め、色々な時代劇のシーンで撮影されているそうで、
今放送中の、TBSの日曜劇場「JIN−仁」で、11月15日に
江川邸の撮影シーンが放送されるとの事でした〜、楽しみです。



こちらが、江川邸主屋玄関です。
1600年前後に建てられ、築400年と推定されます。
当初は、茅葺の屋根でしたが、家屋保存の為、現在は銅版葺きと
なり、今もなお数百年前の姿をそのままに伝えている。
見学は、右横にある垣根の細い通路を通り、玄関裏手の庭へ向かいます。

急に開けた広い庭には、樹木と一般の何十倍もある大きな井戸があり
当時の栄華を彷彿とさせます。

手前の大木は「とちのき」で後ろに低く見えるのが、井戸です。



庭にある米蔵が展示スペースとして公開され、英龍の功績に付いて説明がありました。

数ある功績の中で、印象深かったのは、たった1年半でお台場沖に

6つの島(沿岸防備の為の砲台)を築造したことでした。

当時は、欧米の列強がアジアの各地を次々と植民地化した時代で、彼は蘭学を修め

渡辺崋山や高野長英らと交わり、外国の社会情勢や国際情勢を知り、

日本の置かれた立場を、深く憂慮していました。

日本を植民地化しようと、大砲を積んだ外国船ペリーが東京湾に来航していたが、

英龍は1年半の間にお台場沖に沿岸防備の為の砲台を備えた島を6島も築造したのでした。

当時は、勿論今の様なエンジン付きの船はなく、手漕ぎで、伊豆から伊豆石を運び、海底に埋め

柱には海水に強い松ノ木を使用し、土を埋め立て築造したそうです。

外国船が来航し、その島を見て日本の技術に驚き、日本を植民地にすることを諦めたそうです。

命がけの大変な苦労があったと想像できます。

沿岸防備のために造った、砲台からは大砲を撃つ事はなく、無駄になったのではという

声も上がったらしいが、とんでもない話で、このお台場沖に、築造された砲台の御蔭で、

日本は植民地にならずに済んだのです。


次は、正門から裏手にあたる、こちらの入り口から主屋の土間に入ります。





入って、すぐ見学者一同、目を奪われてしまいました〜
入り組んだ梁の凄さに、驚きです!!!

広さ50坪の土間の上には、天井板が張られていない為、屋根裏の
架構をそのまま目にする事ができ、圧巻でした!!
免震加工が施されており、釘も金具も使わない方法で組込んで造られている為
地震の際は、揺れを分散する設計により、家屋が潰れにくい構造になっているそうです。
右側のしめ縄で飾られた柱は、「生き柱」といい、生えていた「けやきの木」をそのまま柱
として利用したとされる柱です。

これから、主屋の部屋を見学していきます。

申し訳ありません、やたら、長くなってしまいましたが、

part3へまだまだ続きます〜><






























author:asakasou, category:歴史, 09:46
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江川太郎左衛門英龍(坦庵)の魅力を探る
 伊豆は今、「国文祭しずおか2009」と題し、地域にまつわる偉人文人の方々を

紹介し、より深く知って頂こうと、色々なイベントを開催しています。

たまたま見た案内に、翌日の日曜に韮山歴史ガイドツアーの申し込みがあったので

、願ったり叶ったりで即、申し込みました〜♪

コースは、反射炉、江川邸、郷土資料館の約2時間のバスツアーコース!!

韮山代官、江川太郎左衛門英龍(坦庵)えがわたろうざえもんひでたつ(たんなん)の

功績や魅力に迫ります。


霧雨の中、9時半に最初の見学先「反射炉」に向け出発進行〜


案内、説明して頂くガイドさん^^
きょうは、宜しくお願いします

反射炉に到着です!!近くで見ると、圧倒される迫力です。


反射炉の説明を聞きながら、グルッと一周し、当時の

貴重な話を伺う事ができました。

反射炉は、鉄を溶解する炉体と煙突から構成され、鉄製の大砲を

じゅ造する為、坦庵(たんなん)が中心となってオランダの文献をもとに

1854年に起工し1857年に竣工した。

これに使われている約2万枚の耐火煉瓦は、1700度の高熱に耐え、後世の専門家

からも、高く評価されている。

千数百度の高温と反射熱を利用して鉄を溶かすことから反射炉と呼ばれているそうです。

今は、川の水量が減っていますが、当時は水量も豊富で、水車などを使い水を大量に

使用していたそうで、環境にも適していた土地である事は言うまでもありません。

反射炉やその周辺を含め、幕末日本における最先端の軍事工場だったのです。


当時造られていた「24ポンドカノン砲」のレプリカ


当時は、3機造ったとしても、試し打ちの際に2機は自爆してしまうほどで、

製作の苦労が伺えます。

外国の反射炉は、全て取り壊している為、現存は世界でここ一つとのこと。

明治の補修時の反射炉




当たり前ですが、現在の景色とはまるで違い反射炉だけが
そびえ立っていますね。時代を感じる光景です。

歴史の詰まった反射炉を後に、次は江川邸へ向かいます

                       つづく〜



author:asakasou, category:歴史, 19:44
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土肥という地名は・・・
 
土が肥えると書いて土肥(とい)と読むのは、伊豆の方は当たり前に読みますが、

初めての方は、「とひ」とか「どひ」と読まれる方が多く、

読み慣れない方には、難しいですね。

物心付いた時から、当たり前の様になって、早?十年・・・の私ですが、

そもそも「土肥」の語源に付いては、ドップリ漬かりすぎて調べていませんでした。

で、合併前の土肥町の時に出版された「わが町土肥」をみたところ、土肥の

歴史について書かれてあり、大変興味深かったので、下記に記載させて頂きました。




土肥の歴史は一万年以上前の先土器時代まで遡ることができる、また平石、谷戸、

長藤平等の遺跡から多くの縄文時代の土器が発掘されています。

土肥と言う地名は、肥沃で農耕に適した素晴らしい大地であるという意味から

「土肥」の文字が当てられたといわれます。

また一説では、先住民族であったアイヌ人が「土」を意味する「とい」という言葉で

この地を呼んだともされ、いずれにしても土肥が古くから温暖で、

生活に適した豊かな土地である事を物語っています。

土肥は、古来より船が絶えず寄港する海上交通の重要なポイントでありました。

6〜7世紀頃から、この地に海上運輸や水先案内を業とするいわゆる「伊豆水軍」

が登場します。15世紀後半以降、高谷城と丸山城の城主であった富永氏は

北条早雲の家臣、北条水軍の中心的存在となって関東に進出、江戸城城代を約60年

にわたり務めるなど、北条家とともに栄えました。

土肥では天正5年(1577)に金銀山が開抗され、江戸時代初期には幕府直轄となり、

産出された金銀は駿府や江戸へ送られ、幕府の財政を支えていたのです。

また土肥には西伊豆最古にして最大の湯量を誇る温泉があり、

明治以降、「金と湯の町」の観光地として大いなる発展を遂げ現在に至っています。


と記述されてあり、土肥を見直してしまった〜^^


こちらも歴史のある土肥神社例大祭です。

今月10、11日に行われますが、雨で準備が遅れ

きょうは祭りに向け急ピッチに支度が進められていました^^

(二階の窓から望遠で)

祭り当日お天気を祈ってま〜す^^













author:asakasou, category:歴史, 20:12
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蛭ヶ島(ひるがしま)

 買い物の途中、以前日曜に長岡で開催していた、フリーマーケットに

寄りましたが、肝心のフリーマーケットは

開催してませんでした。残念><

もう一箇所、韮山時代劇場で、何か開催してるかもと、

立ち寄りましたが、こちらもガラ〜ンと・・・

そのまま裏道を右折して帰ろうと信号待ちしていましたら、

信号前方に何やら、赤い営業中の「のぼり」がチラチラと・・・

初めての道で何かあるのかと行ってみた所、

何と〜!!源頼朝が伊豆の蛭ヶ島に配流された地を

記念公園として、開放されていました。

以前、湯本館をご一緒したFさんからも、「蛭ヶ島」の話は聞かせて

頂いてたので、これは思いもよらぬラッキーでした^^



早速園内内に入り、解説の掲示板を写していましたら、

ボランティアのバッジを付けた方が、良心的に色々説明や案内を

してくれました〜^^

土日、祝日は、ボランティアの方が常駐して下さり説明して頂けるとのことでした。

地元の方が、誇りに思う気持ちが伝わります。


(記念碑)


(江戸時代、秋山富南が蛭ヶ島をこの地と考証したことを記念する碑)

今は、川の水量が減り、現在の狩野川になりますが、昔はこの石碑がある所は川が流れ、

当時の蛭ヶ島は湿田のなかの田島(微高地)で、川の中州だったそうです。


頼朝の出生から蛭ヶ島に配流される経緯や、八重姫との恋愛、北条政子との結婚、

八木邸攻略や、千葉に渡ってから頼朝が鎌倉に開いた日本最初の武家政権の鎌倉幕府

の話など、素人の私に事細かく30分位説明して頂き、感謝です。

韮山城跡地も前方の山頂にあるそうで、

まだまだ韮山にはこの様な史跡が沢山!!!歴史の宝庫ですね〜


頼朝のゆかりの史跡や、韮山城とその周辺の地図も頂きまして、
なぎの葉の記念碑で記念写真をパチリ!!
ありがとうございました




頼朝三十一歳と政子二十一歳の恋愛は伊豆山権現で成就したので、

「こんどござらば持て来てたもれ、伊豆のお山のなぎの葉を。」の故事に

ならって「なぎの葉」は、当時鏡の裏に入れてお守りにすると、

願いが叶う(結ばれる)とされていたのだそうです。


(なぎの葉は、葉脈が縦に走っているので、敗れにくい事から
恋が叶うといわれる)


(なぎの幹は、まるで茶色のペンキを塗ったかの様な色)


頼朝と政子(なぎの葉の縁結びの碑)





園内には、俳句も飾られて・・・



公園に隣接されている、蛭ヶ島茶屋です


こちらの茶屋は、木造建築業を目指す伊豆職業訓練校の生徒が

講師の指導のもと、授業の教材として実際に茶屋建築に携わって完成した。

建築の構造も柱や梁などの木材は丸太から加工し、内部も天上を張らず、

屋根の組み方をそのまま表現できるあらわし工法や

金物の代わりに込み栓工法を採用し、建物の強度をなるべく金物に頼らない

工法で、木造ならではの昔ながらの伝統技術を継承する形で建築することができた。


お茶付き無料休憩ができ、
昼食、単品料金もリーズナブル
お稲荷さん3個で200円勿論買ってきました〜



(頼朝と政子の永遠の愛を富士に誓う)


御蔭様で思いもよらない所で、

たっぷり歴史に触れることが出来きました〜^^/












author:asakasou, category:歴史, 16:23
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